哲学

フィヒテについて。彼の哲学は、「自我」哲学と呼ばれているらしい。そこで先生が、「私とは何か」という質問をしてきた。私は残念ながら指名されなかったのだが、10人程度の人間が回答を求められた。いくつか、紹介したい。
「私とは、名前である」という答えがあった。「名前」ねぇ・・・。私は、名前などというものに何の価値も見出せないので、その見解には強い反感を覚える。
「私とは、精神(または精神と身体)である」という答えが一番多かった。「精神」という見解は、ともすれば唯心論に傾きそうなので、しっくりこない。私は、何の根拠もないのだが、唯心論には賛同できないでいる。
「私とは、他人から見た自分と、自分がこうだと思う自分の結合体である」という答えもあった。「他人から見た自分」が「私」を構成しているのならば、他人から認識されない状況にあった場合、「私」の一部が欠けることになるわけだが、それは一体どのような状態のことなのだろうか。
私とは、今ここにある肉体と、それを認識している脳内活動である。それだけのことだ。あえて言うならば、私見は「私とは、精神と肉体である」という見解に一番近いものだということになろうか。ただ、「精神」という言葉の定義が曖昧に思えるので、安易に「精神と肉体」と呼びたくはない。否、そもそも「精神と肉体」と言う時点で、その前提として、「人間は精神と肉体に分かれているんだ」というテーゼがあるように感じられてならない。それには、理由もなく嫌悪感を覚える。
なにやら、今回の内容では、自身の感覚に依存し、私の意見に根拠が与えられていないが、ご了承願いたい。そんなときもある。