レヴィナス 何のために生きるのか/小泉義之

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若田教授から借りた。小泉義之によれば、「何のために生きるのか」という問いに対するレヴィナスの答えは「来るべき他者のために生きて死ぬ」になるらしい。
本当にそうなのか、と私のゴーストが囁いているので私はこの答えに納得できない。とはいえ、私もかつて「伝えるために生きる」と言っていたことがある。が、いわばこの本とは順序が逆なのである。「自分のために生きること→他者のために生きること」という説明になっている。しかし、私が「伝えるために生きる」と言うとき、そこには「他者のために生きる→自分のために生きる」という思考があるのだ*1。よって、ある程度は首肯できるわけなのだが、おそらく決定的に異なるモノがあるように感じられた。
とはいえ、最近、理由あるいは目的などあるのか(、いやない)、とも考え始めている。しかし、そのような答えは「それほど悪くはない無常観ではあるが、人生の生老病死の実相を捉え損ねている」らしい。本当にそうか。実は何もないのに、そこに愚かにも理由や目的を見出そうとしているだけではないのか。まぁ、「何のために生きるのか」という問い自体は、きわめて重要な問題提起であると思うが。
なお、「何のために生きるのかを考えるために人は生きている」という答えは、洒落のめしてみせているだけで、答えたことにはならないそうだ。つまり、森博嗣の答えは許されないらしい。
最後に1点。自分が他人を殺さないのは他人に現前する「顔」が「殺すな」と言うからだ、と言う。しかし、私は他人に差し出すことの出来る肉体を有しているから、私のために生きる(=私の身体を維持する)ことは他者のために生きることになる、とも言う。が、その論理に沿うならば、他者が私を殺さないのも私に現前する「顔」が「殺すな」と言っているからであり、私の肉体を差し出しても、それは単なる自己満足ではないのか。それは、すなわち自己のために生きているということではないのか。ゆえに、ここで証明しようとした「他者のために生きる」に矛盾するのではないのか。

*1:厳密には違う気もするが、とりあえず対比のため