自省録/マルクス・アウレーリウス

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若田教授から。まだまだストア派を読んでいる。というわけで、今回は哲人皇帝の記録を読む。とても素晴らしいと思います*1。短い文章で書かれているところが、なおよい。


「たとえ君が三千年生きるとしても、いや三万年生きるとしても、・・・なんぴとも今失おうとしている生涯以外の何ものをも生きることはない」(2巻14章)


「肉体に関するすべては流れであり、霊魂に関するすべては夢であり煙である。人生は戦いであり、旅のやどりであり、死後の名声は忘却にすぎない」(2巻17章)


「善い人間に特有なものとして残るのは、種々の出来事や、自分のために運命の手が織りなしてくれるものをことごとく愛し歓迎することである」(3巻16章)


「これからは、君自身の内なるこの小さな土地に隠退することをおぼえよ。何よりもまず気を散らさぬこと、緊張しすぎぬこと、自由であること。そして・・・死すべき存在として物事を見よ。・・・すべて君の見るところのものは瞬く間に変化して存在しなくなるであろうということ。・・・宇宙即変化、人生即主観」(4巻3章)


「波の絶えず砕ける岩のごとくあれ。岩は立っている、その周囲に水のうねりはしずかにやすらう。『なんて私は運が悪いんだろう、こんな目にあうとは!』否、その反対だ、むしろ『なんて私は運がいいのだろう、なぜならばこんなことに出会っても、私はなお悲しみもせず、現在におしつぶされもせず、未来を恐れもしていない』である。・・・『これは不運ではない。しかしこれを気高く耐え忍ぶことは幸運である。』」(4巻49章)


「明けがたに起きにくいときには、つぎの思いを念頭に用意しておくがよい。『人間のつとめを果たすために私は起きるのだ。』自分がそのために生まれ、そのためにこの世にきた役目をしに行くのを、まだぶつぶついっているのか」(5巻1章)


「人生において貴重がられるものはことごとく空しく、腐り果てており、取るに足らない」(5巻33章)


「肉の料理やそのほかの食物については、これは魚の死体であるとか、これは鳥または豚の死体であるとか・・・という観念を我々はいだく。・・・ちょうどそのように君も一生を通じて行動すべきである。すなわち物事・・・を赤裸々の姿にしてその取るに足らぬことを見きわめ、・・・剥ぎ取ってしまうべきである」(6巻13章)


「星とともに走っている者として星の運行をながめよ。また元素が互いに変化し合うのを絶えず思い浮かべよ。かかる想念は我々の地上生活の汚れを潔め去ってくれる」(7巻47章)


「あたかも君がすでに死んだ人間であるかのように、現在の瞬間が君の生涯の終局であるかのように、自然に従って余生をすごさなくてはならない」(7巻56章)


「得意にならずに受け、いさぎよく手放すこと」(8巻33章)


「現在の時を自分への贈物として与えるように心がけるがよい」(8巻44章)


「人に善くしてやったとき、それ以上のなにを君は望むのか。・・・その報酬を求めるのか。それは眼が見るからといって報いを要求したり、足が歩くからといってこれを要求するのと少しも変りない」(9巻42章)


「善い人間のあり方如何について論ずるのはもういい加減で切り上げて善い人間になったらどうだ」(10巻16章)


「健全な胃の腑はあらゆる食物にたいして、ちょうど挽臼がすべて挽くようにできている穀物にたいして用意があるのと同じようでなくてはならない。さらにまた健全な精神もあらゆる出来事にたいして用意がなくてはならない」(10巻35章)


「理性的な魂の特徴。自己をながめ、自己を分析し、意のままに自己を形成し、自己の結ぶ実を自ら収穫し・・・人生の終止符がいずこにおかれようとも自己固有の目的を達成する。・・・したがって『私は自分のものを完全に所有している』といえるのである。・・・なににも優って自己を尊ぶこと」(11巻1章)


「すべては主観にすぎないことを思え。・・・したがって君の意のままに主観を除去するがよい。するとあたかも岬をまわった船のごとく眼前にあらわれるのは、見よ、凪と、まったき静けさと、波もなき入江」(12巻22章)


「まったく、自分にうぬぼれのないことを自負して、それでうぬぼれている人間は、誰よりも一番我慢のならないものである」(12巻27章)

*1:もうこればっかり