賭博/偶然の哲学/檜垣立哉

http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309244556


読んだ。とても面白かった。
競馬から「偶然」について切り込む第1章、九鬼周造ドゥルーズを参照に「偶然の論理」について考察する第2章、フーコーの「自己」や「生権力」を踏まえて「偶然の倫理」を描き出す第3章と、気色の違う3つのパートから構成されている。特に、第2章の九鬼周造の「偶然」の分類が興味深い。
いわば、偶然の最果てには必然の扉が待っている。それが「現実」であり、「現在」であり、また「瞬間」であり、「永遠」であるものなのだ。「現に今あるようにある」こと。


「『遊び』とはそれ自身・・・非決定的なものに身を委ねる行為である。偶然であることを積極的に認め・・・快楽の情動を享受することである。・・・それは『意図的に非意図的なものを生きること』である」(17〜18頁)


「賭博の形式的な美学的性格とでもいうべきものがここで浮かび上がってくる。それは・・・『諦め』の情動とでもいうべきものである。この世界のいかんともし難さを『諦め』てみるという仕方での能動性の提示である」(63頁)


「現在がかくあること、このようにしか存立しえないこと、このようにあってしまうことへの尽きせぬ『驚き』・・・それは・・・『この今』があってしまうことについての根本情動なのである」(77頁)


「あらゆる『この今』は、一回的に始まったものの『その都度』として、自らが特異点であることを担い、自己であることを形成する。・・・一振りが行われるのは『一度きり』でありながら、それは『その都度』においてである。一振りがなされた『一度きり』の賭けが、『その都度』として現れる。現在が永遠の一回の出来事であるということ」(117頁)


「自己が自己へと触れるときが、自己邂逅のこの位相こそが『今』である」(148頁)


「現在のありかたが賭けであること。賭けの概念によってしか、現在がリアルであることは摑まえられないはずである。それは自然なるものへの信である」(152頁)


「『世界』はこの博徒たちの驚きにあるのである。・・・『瞬間』にあるのである。瞬間を引き受ける、自己自身にあるのである。賭博する自己自身が『世界』である」(178頁)