西田幾多郎の生命哲学 ベルクソン、ドゥルーズと響き合う思考/檜垣立哉

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新書ではあるが、じっくり読んだ。
タイトル通り、西田の哲学をベルクソンドゥルーズなどの、いわゆる「生の哲学」の系譜として読んでいこうというもの。特に、晩年の「絶対矛盾的自己同一」に至ると、ドゥルーズの「第三の時間」と共鳴しあうようになる、というのは興味深い。
私としては、「絶対無」以降の、「永遠の今」や「死を含む生」、「自己の中の他者」などを論じるようになる後期の西田哲学が面白かった。
これまで、「西田幾多郎」については名前を知っている程度だったので、この本で勉強になった。いずれ原典も読んでみたい。


「『実践』であり、『働き』であり、『ポイエシス』(制作、創出、作ること)であること。自ら自己形成される世界であること。徹底的に、動きつつ変わりゆく、そうした世界の現場に自らを投げ込むこと。そして、そうした『行為』の立場以外からこの世界を見ないこと」(34頁)


「身体は、歴史は、芸術は、そして生命は、まさに矛盾としての自己において、自己を『自覚的』に限定し、ある側面で『場所』としての環境と呼応しながら、『無』に晒された根拠なき生成を果たしつづける『形』なのである」(40頁)


「『永遠の今』とは、あたかもそれ自身が虚空に浮いている『現在』である。中心を決定するような周辺は描かれず、なおかつ、どこでもが中心となるような円。こうして『永遠の今』は、『何処にても始まり』『瞬間毎に新』であるような『現在』の姿を描いていく」(163頁)


「この世界以外の何も想定しない。しかしこの世界のなかには、平板に並列する『個物』があるのみではない。この世界は、それ自身無限の連関であり、ひとつひとつの『個物』はそうした連関を表現している。そしてそうした無限の連関も、『個物』が『個物』に対することによって、つまりは『個物』が動きながら破断的に生成することにおいてしかとりだせない」(216頁)


「『行為的直観』と『絶対矛盾的自己同一』によって描かれる世界とは、超越的な原理をどこにもおかず、あらかじめ与えられた私も対象もなく、目的も起源もなく、まさに『無』の上に浮遊するものとして、『個体』と『個体』とが、相互に相互を規定しながら、関係性の全体を内に含み込み、新たなものを創出しつづける『ポイエシス』の世界である」(228〜229頁)