性の歴史III 自己への配慮/ミシェル・フーコー

http://www.shinchosha.co.jp/book/506706/


フーコーの、1984年に出版された著作、その2。実は一度読んでいる。そのときの記事はこちら
タイトル通り、ローマ時代の「自己への配慮」を取り上げている。それを、第2巻「快楽の活用」と同様に、身体・女性・若者に分類している。
「自己への配慮」が古代ギリシアの「快楽の活用」と異なるのは、まず、「人間の脆弱さ」が非常に強調されるようになってくることだ。次に、「同性愛」が、格別の問題として取り上げられなくなること。特に、「若者愛」の位置付けが大きく変化したことが指摘されている。
ローマ時代は、「快楽の活用」と「キリスト教倫理」の狭間にして「自己への配慮」の絶頂期だ、という考察は、もっともだと思われる。
そのほか、ローマ時代の夢分析を扱う第1章、「主体の解釈学」をぎゅっと縮小したような第2章などが、興味深い。
いずれにせよ、「快楽の活用」と「自己への配慮」という書物は、「主体の解釈学」などと併せて理解されるべきだろう。


エピクテトスにとって、自己への配慮とは、一つの特権=義務。一つの賜物=責務なのであって、それはわれわれに、自分自身を自分のすべての専念の対象と見なすよう強制しつつ、われわれに自由を確保してくれる」(65〜66頁)


「ムソニウス・・・の修行によって可能になるのは、自分自身と差し向かいになること、自分の過去をまとめること、過去の生活のすべてに目を配ること、着想をえたいと思う教訓や模範に読書をとおして慣れ親しむこと、分別ある行為にかんする根本原則を、余分なものを捨て去った生活のおかげで見つけ出すこと、である」(69頁)


「つねに自分の心像に注視すること・・・それは主体の行う自由な分別ある選択に属することのできる事柄だけを、自己との関係のなかで受け入れるために、自分自身と心像との関係を計ることである」(85〜86頁)


「自己への回帰はまた、一つの道程でもある。その道程のおかげで人は、すべての依存関係とすべての隷属関係を脱して、ついには自分自身に復帰する・・・暴風雨を避ける港のように、あるいは城壁に守られている城塞のように」(86〜87頁)


「ロゴスは世界に君臨し、この同じ世界を作りあげている素材の避けがたい壊れやすさを克服しようとする」(142頁)


「体をそれ固有の掟にしたがって導くことができるために、心が自らを正していくことが重要なのである」(173頁)


「体への自発的な服従は、自然の秩序をつかさどってきたロゴスの、しかも自らの目的のために体の仕組を調整してきたロゴスの声に耳を傾けている姿として理解されるべきである」(175頁)


「存在の何らかの方式、関係の何らかの様式・・・自分の生にたいして名誉ある美しい形式を与えたいと思う人々にとっての規則である。若干の人々がともかくも実践している、ある生の美学がもつ掟なき普遍性である」(239頁)