魂(アニマ)への態度―古代から現代まで/神崎繁

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若田教授から。「魂」の歴史について、それがどのように使われ、解釈され(あるいは誤読され)てきたのかを追う。具体的には、ホメロスに始まり、ソクラテスプラトンを経て、アリストテレスストア派へ。そして、新プラトン主義や教父を介して、17世紀のイエズス会士やデカルトに至る。
非常に面白かった。冒頭にウィトゲンシュタインが取り上げられ、途中でニーチェが紹介され、末尾をハイデガーで終えているところなども、何やら奇妙な親近感が私を襲う。


ギリシアでは、(魂は)誕生から死に至る過程で、呼吸や栄養摂取、生殖、知覚、運動、思考といった生命全般の原理として扱われています」(5頁)


「私の彼に対する態度は、魂に対する態度である。私は、彼に魂があるという〈意見〉をもっているのではない(哲学探究・第2部4節)」(20頁)


「善い行いに関しては、これを・・・できるだけ自らのこととして模倣的に語るべきであり、悪しき行為の場合には、できるだけ・・・三人称的に語るべきで・・・語る内容が善ければそれに同化するように努め、悪ければそれを異化するように努めるという・・・自らとの距離を測る語り方」(44〜45頁)


「気持ちが二つに分かれているということと、体がまさに引き裂かれんばかりにねじれ苦しんでいることが、二重写しになっているのです」(62頁)


「どこかセネカには・・・あえて表層にとどまろうとする態度が感じられます。・・・激しい感情に見舞われたとき、これは誤った判断に基づくものだと考えを切り換え、あるいはすでにそうした感情にとらわれそうになっても、これはまだ同意が与えられていないのだ、と突き放すことができる・・・感情の治療の処方箋」(128〜129頁)


セネカでは、咄嗟の反応にはまだ同意をともなった判断が成立していないから・・・それに対する反省や非難、後悔といったことも意味がなくなり・・・感情そのものを評価する過程はそもそもありません」(131頁)


「(ハイデガーの考えは)われわれ人間の能動性をできるだけ切り詰めて、世界の方がわれわれにその姿を顕わにしているのであって、われわれはそれを受け止めるのだという考えに貫かれているのです」(207頁)


ハイデガーが『プシューケー』に与えた訳語が『現存在』だったことは、やはり重要なこと(で)・・・心は、頭のなかや、心臓にあるのではなく、われわれの身体全体、そしてその身体がかかわる世界においてある―『ダー・ザイン』『そこに・ある』というのは、まさにそういう意味です」(211頁)