主体の解釈学/ミシェル・フーコー

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若田教授から。まだまだフーコーである。およそ1ヶ月かかって、読み終わった。
1982年度のコレージュ・ド・フランスでの講義。24コマの講義なので、色々な例を出して説明しており、分かりやすい。
相変わらず、テーマは「自己への配慮」である。何度も言うが、(フーコーの解釈する)ストア派と、スピノザの考えは、非常によく似ていると思う。


「一般的な態度、物事を見る見方、人々の間での振る舞いやさまざまな行動をおこない、他者との関係を取り結ぶ、そのやり方、という主題があります。『自己への配慮』とは、ひとつの態度であり、自己や他人、世界に対する態度なのです」(14頁)


「自然認識は世界全体の認識でもあるのです。ひとは世界の偉大なる円環を廻ってはじめて、自分自身に到達できる」(309頁)


「徳ある魂とは、世界全体と交流し、その出来事や行為やプロセスを構成するものすべてを観照するよう注意を払うような魂のことです。(中略)世界から離れるのではなく、世界に組み込まれること、内面の秘密のほうへ目をそらすのではなく、世界の秘密を探索すること、こうしたことにこそ、魂の『徳』があるのです」(325頁)


「世界の構成を司り、神の理性そのものであるような理性が、それを認識させる私たちの理性と同じ種類のものであること(中略)これは人間の理性と神の理性の本性の共有、機能の共有の発見です」(326頁)


「世界はひとつしかなく、この世界が唯一の可能な世界であって、それに束縛されているのだから、これを選ばなければ何も選ぶことができない、ということなのです。これが、唯一のもの、選択すべき唯一の点なのです」(329頁)


「ゼウスとは何でしょう。それはたんに、自分自身に専心することしかしない存在のことです。それは純粋状態における『自己への配慮』です。つまり、完全に循環し、何にも依存しないのです。(中略)ゼウスとは、自分自身に対して生きる存在です」(514頁)


「『死はそこにあるのだ、自分は最後の日を生きつつあるのだ』と考えるというものです。(中略)一日の最後の瞬間が人生の最後の瞬間であるようにして、自分の一日を組織し、経験することなのです。(中略)一日が終わって眠ろうとする瞬間に、『私は生き終えた』と、喜びとともに笑顔で言うことができるのです。(中略)『最高の人格とは、日々をおのが終焉の日のごとく暮らすことだ』(マルクス・アウレリウス)」(536〜537頁)