自己と他者の統治/ミシェル・フーコー

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コレージュ・ド・フランスにおける1983年の講義。
内容は、「率直に語る」という意味の「パレーシア」の概念の描き出しである。82年の講義「主体の解釈学」で取り上げたストア派などの「パレーシア」から遡り、エウリピデスから「パレーシア」を辿り直そうとしている。
取り上げられるのは、エウリピデスの悲劇作品、ペリクレスやイソクラテスの演説、プラトンの「国家」「法律」、プラトンの「書簡」*1、「ソクラテスの弁明」「パイドロス」「ゴルギアス」などである。
「主体の解釈学」からの流れとして、「自己の自己への関係」の、なかでも「自己への配慮」の核としての「パレーシア」という位置付けがなされている。
哲学史的には、「快楽の活用」と同様に、ソクラテスプラトンの読み直しを行っている講義といえる。
解説によると、この講義では取り上げられていない、しかし「パレーシア講義」で扱っていた「ソクラテス」や「キュニコス派」の「パレーシア」については、84年のフーコー最後の講義で描き出されているらしい。84年の講義も、是非読んでみたい。


「パレーシアスト・・・本当のことを述べる人物は、いわば自分が会話したり話しかけたりしている人物の顔めがけて真実を投げつける」(68頁)


「パレーシアは・・・いわば自己自身を自己のパートナーへと構成するのです。・・・真実の言表において自らを自己自身に結びつけ、、また自らを自由に自己自身に結びつける・・・勇気ある行為・・・自由な勇気・・・その『本当のことを語る』ことを自己自身との協約のうちに賭ける人なのです」(81頁)


「歴史における重要で根底的な物事は、出来事という細く微細な糸を伝わるということ。それこそ、それに対して覚悟しなければならないことであり、むしろ勇気を持って立ち向かわねばならないことであると思います。歴史とは、そして歴史において本質的なものとは、針の穴を通るものなのです」(133頁)


「ロゴス――つまり理性であり、合理的なことを語り、思考する仕方です」(171頁)


「哲学が本当に単なる知識の習得ではなく、同時にひとつの生のあり方、存在の仕方でなければならず、自己自身を練り上げ、自己自身に働きかけるに際しての、自己自身に対するある種の実践的関係でなければならないとすれば・・・」(272頁)


「自分が選んだのはその道であり、自分が踏破しようとするのはその道であり、自分はその道の果てへと至りたいのであり、それ以外の生き方はできないのだ」(296頁)


ディオゲネスの哲学的パレーシアとは、基本的に、あらゆる慣習や、国家が人工的に課すあらゆる法律の外部で、自らをその自然的な裸の状態で示すということです。すなわち、ディオゲネスのパレーシアは生のあり方そのもののうちにあるのであり、またそれは権力に対する侮辱や非難の言説・・・のうちに現れるのです」(353頁)


「哲学的な言語、その存在様態はetumos・・・余分がなく単純であり、思考の運動そのものに合致しているがゆえに、飾りもないそのままで、自らの真理のうちにあり、それが参照しているものに合致しているのです。それはそれ自身が参照しているものに合致し、またそれを述べる者が考え、信じていることに適合するのです。・・・語りかける相手・・・ではなく、語る主体との関係」(387頁)

*1:特に「第七書簡」