善悪の彼岸/ニーチェ

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エピクテトスストア派は一息ついて、この1ヶ月ほど読んでいたもの。久しぶりのニーチェ
箴言形式で、「善悪」に象徴されるキリスト教道徳およびあらゆる近代主義を否定し、その「彼岸」である「高貴」の倫理を提示している。読みやすく、それでいて味の深い言葉が並ぶ。ニーチェの文章は力強いと改めて感じさせる作品だった。面白かった。
それにしても、彼の言う「高貴」の倫理はストア派スピノザによく似ている。まぁ、この作品の中では、両者ともに何度も批判されているが。ただ、否定されているわけではないのが、微妙なところ。逆に、「われわれ最後のストア派」と言っている箇所もある。勝手ですよね(笑)
なお、上のリンクは岩波文庫のものだが、私が読んだのは白水社版である。


「意欲は私には何よりもまず、ある複合的なものであり、ただ言葉としてだけ単一である、あるものであるように思われる。・・・われわれの肉体はなにしろ多数の霊魂の共同体にすぎないのだから」(19番)


「風のもつ足をそなえ、すべてを走らせることによってすべてを健康にする、風のものである呼気と吸気と、あの解放的な哄笑をもっているとしたら、病める悪しき世界の泥沼も・・・結局は何ものであろう!」(28番)


「内側から見られた世界・・・これこそはまさに『力への意志』であって、それ以外の何ものでもないであろう」(36番)


「ひどく冷たく、まったく氷のようなので、彼にさわると指が焼けるほどだ!彼を掴む手はどれもびっくりする!――そしてまさにそれゆえに、多くの者は彼が燃えているのだと思う」(91番)


「異議、脱線、楽しい不信、嘲笑癖などは、健康の印である」(154番)


「今日では、高貴であること、独自の存在であろうとすること、他者でありうること、孤立して自らの拳で生きなければならないことが、『偉大さ』という概念に属している」(212番)


「何ごとももはや勝手気ままにはせず、すべてを必然的にするという、まさにそういうときに、彼らの自由、繊細、全権などの感情、また創造的な手当、処理、形成などの感情が、その頂点に達することを、――要するに、必然性と『意志の自由』とが、そのようなときに・・・一つになるということを、知りすぎるほどよく知っている」(213番)


「高貴な人間は自らのなかにある力強い者を尊び、また、自らを抑える力をもつ者、語ることと黙ることを心得ている者、喜びをもって自らに厳格と苛酷を加え、かつすべての厳格なもの苛酷なものに敬意をはらう者、を尊敬する。・・・自分自身に対する信仰、自分自身に対する誇り・・力強い者たちとは、尊敬することを心得ている者たちのこと(だ)」(260番)


「深い苦悩は人を高貴にする。それは人を切り離す。もっとも精巧な仮装形式の一つは快楽主義であり、以後は、苦悩を気軽に受けとめて、すべての悲しげなもの深刻なものに抵抗しようという、ある種の勇敢な趣味をひけらかすことである」(270番)


「巨大な、誇らしい沈着をもって生きること。つねに彼岸にいること――。自らの情動を、自らの賛否を、思いのままにもったりもたなかったりし、しばらくのあいだ、それらと気安くつきあうこと。・・・これらのものにまたがること。・・・愚かさも情熱も、同じように利用することを知っていなくてはならない。・・・そして、勇気と、洞察と、共感と、孤独という、自らの四つの美徳の主人でありつづけること」(284番)


「私ならば哲学者の位階の序列を、――黄金の哄笑を能くする最高の者たちにいたる、それぞれの笑いのもつ位階に従ってきめることを、あえてすることだろう。・・・神々もまた哲学するとするならば――彼らもまたその際に、ある超人間的な新しい仕方で笑うことを知っている。・・・神々は嘲笑することを好む・・・彼らは神聖な所業の際にも笑いをやめることができないように見えるほどだ」(294番)