若田さんと

おしゃべりめ、黙れ

今日は、2月に続いて2度目となる、ケロヒコ氏と若田さんの顔合わせの日。 今回は、「神々」「ピュシス」「われわれの限界」などをキーワードに会話したり、「ハイデガー」や「フーコー」についてのいつもの話をした。 さらに、「自己への配慮の系譜とアニ…

ただ、そうせざるをえない

今日は、ケロヒコ氏と若田さんの初顔合わせがあった。 氏の若田評は「ダンディ」。とりあえずは上手くいった、と思いたい(笑)

フーコー「主体の解釈学」読書会 第33回

「講義要旨」を読む。 フーコー自身が24回分の講義をまとめてくれているので、とても分かりやすい。 今回で「主体の解釈学」は一区切りとなる。

フーコー「主体の解釈学」読書会 第32回

講義の分は今回でラスト。 ・死の省察=自分は最後の日を生きつつあるのだ 人生全体が流れてしまうかのようにその一日を生きる 一日の最後の瞬間に「私は生き終えた」と喜び、笑顔でいう 人生を輪のように閉じる視線=人生を全体化して、あるがままの姿で見…

フーコー「主体の解釈学」読書会 第31回

・未来についての不信=記憶の尊重 眼前にあるのは過去であり、未来へは後ろ向きに進入していくのだ 未来に目を向ける愚か者は、現在=現実=唯一のものを受け入れることができない 記憶=もはや存在しないものの存在様態 記憶の訓練=神々に対する感謝・謝…

フーコー「主体の解釈学」読書会 第30回

・メレターン=内的な二重化=能力に高低差をつけること 理性=持てる能力を自由かつ適切に使用する能力 ストア派の視線=下に向けられる視線 表象・情念・臆見の流れを観察・吟味・判断する ゼウス=純粋状態における「自己への配慮」 完全に循環し、何にも…

フーコー「主体の解釈学」読書会 第29回

・生の技法=生の出来事を受け取る方法 「生の技法」の原則としての「自己への配慮」→「自己への配慮」に書き込まれる「生の技法」 透明で支配された自己への関係=自己の清らかさとしての純潔 ひとは自分に対して、自己に向かって、自己への関係とともに生…

フーコー「主体の解釈学」読書会 第28回

・生そのもの=絶えざる試練 神は力強く=疲れをしらぬ活力をもって愛する われわれを自分・人間・神に対して備えさせる=勇気と力を持った者にする 生と自己育成の広がりの一致 神=格闘技の師と哲学者=不幸・不運・苦労の偵察者 ストア派の伝統→偶有的な…

フーコー「主体の解釈学」読書会 第27回

・生の様式=生の技法 自分の人生をひとつの美しい作品とすること 美しい作品=ある種の生のフォルマに従い、自己の自由を活用する アスケーシス=自己の技法 メレターン=思考の思考に対する訓練=真の意味での労働 ギュムナゼイン=現実の状況に対する訓練…

フーコー「主体の解釈学」読書会 第26回

・人生においてしかるべく振る舞おうと思う人には、みな指導者が必要 自己を形成・武装・装備して、人生の不当さに抵抗する 指導者の不当さは肯定的な試練 パレーシア=真理に場を譲るような対話 魂に小さな種を蒔く=澄んだ水のように明晰で、真理がそこを…

フーコー「主体の解釈学」読書会 第25回

・パレーシア⇔追従と怒り 言うべきことを言いたいときに言いたいように言い、こう言うべきだと思われるような形で言う 追従者=ひとが自分自身の実際の姿に満足することを妨げる人 怒りの倫理=権力の正当な行使とその濫用の要求の区別方法 パレーシア⇔レト…

フーコー「主体の解釈学」読書会 第24回

・パレーシア=すべてを語ること、率直であること、心を開くこと、言葉の自由 言語を開始する=ひとは語るべきを語り、語りたいことを語り、語らなければならないことを語る パレーシア=言語的な身体=技法=倫理=術=道徳 目標は哲学的なロゴス=自分自身…

フーコー「主体の解釈学」読書会 第23回

・読み書き 重要かつ十分なものを読む=省察の機会を与える 省察=思考を自分のものにする、深く確信する 死についての省察=死につつある人に「なる」 書いて、自分自身に対して読み直す=真実の言説を体内化する 文通する=恒常的に自己指導の状態に身を置…

フーコー「主体の解釈学」読書会 第22回

・真理に対する注意 飾り・気取り・追従・幻影をすべて無視する 神のお告げのように魂に刻みつけられたものにする 記憶=自分自身にすばやく目をやる 発せられた言葉がまだそれを発した人の口にあるくらいの時に、精神においてしっかりと保持する 自分にしっ…

フーコー「主体の解釈学」読書会 第21回

・修練=私自身が真実の言説の主体となること=真理を自分のものにすること 聴取、読み書き、語り 聴き取る=ロゴスを集める=真について語られたことを集めること ロゴス=自動的・自発的に魂に効果を及ぼすもの 沈黙する=いま聴いたことを沈黙のオーラや…

フーコー「主体の解釈学」読書会 第20回

・アスケーシス=真実を語り、実践し、行使することを可能にするもの しかるべき行動をする、あるべきようにある、あろうとするようにある 自己充足して、自己の変形を生み出し、自分自身から幸福を汲み取る パラスケウェー=自己を保護する装備=鍛えるべき…

フーコー「主体の解釈学」読書会 第19回

・微分的な視点=軽蔑すること=高所から眺める、上から下へと事物を見下ろす 対象を時間において分解する 対象を構成要素に分解する 価値を低下させる縮減的な記述 徳の一瞬は永遠にひとしい

フーコー「主体の解釈学」読書会 第18回

・内側を見よ=表象の流れを選別すること 定義と記述=境界を引く=与えられるがままの姿で捉えること よく見ること=自分自身に対して言う=価値体系の再活性化 実在の複雑な充実と存在の脆弱さを知る パラステーマタ=そこにとどまっているもの、視界にお…

フーコー「主体の解釈学」読書会 第17回

・自己を崇め奉る=自己と接触し、自己を眼前に置く 理性としての自己と点としての自己の間に最大限の緊張を打ち立てること 神の摂理=選ぶ必要のない、唯一の世界 生きるのか、生きたくないのかという選択 私たちがそうである、現実の生存を、「今」「現実…

最終講義

某若田教授の最終講義があったので、出席してきた。 「パレーシア」に始まり、「あたかも今日が最期の日であるかのように生きよ」というマルクス・アウレーリウスの言葉で終わった。いやー、まったくもって凄い講義だなー(棒読み)

フーコー「主体の解釈学」読書会 第16回

・視線の運動 自己へ向かう航路は、いつもどこかオデュッセウス的 死を準備する=舌の先に魂を持つこと ひとは世界の偉大な円環を廻ってはじめて、自分自身に到達できる

フーコー「主体の解釈学」読書会 第15回

・自己=よき格闘技の選手 使われうる動作だけを時に応じて活用する 偶然を軽蔑し、あらゆるものを恐れず、世界を一つの家とみる 自己=関係の回帰的・恒常的な項の現出 ここから外物へ視線を向け直す 存在様式の変容→堅固で静穏な場所に立つ 自然研究=われ…

フーコー「主体の解釈学」読書会 第14回

・自己に集中する=自己に視線を向ける=自己以外から視線を逸らす 自己のまわりに真空を作り、自己と目標の距離に引き戻す 好奇心=他人が困っていることを知ろうとする、に抗う 自然研究・歴史を読む・田舎に隠棲する 否定的意味合いとしての後悔 後悔を避…

フーコー「主体の解釈学」読書会 第13回

・救済=自分の全存在を自己へ向ける 自分に委ねられた人間というものに対して然るべく注意を払うことができるようになる 私たちを私たちから逸らせるあらゆるものから、私たちを逸らせる 立ち返り=世界の内在そのものにおける回帰 自己の自己に対する完全…

フーコー「主体の解釈学」読書会 第12回

・自己への配慮と報いとしての他者の救済 友愛=友人そのものではなく、それへの信頼そのもの 有用性から始まり、それを維持せねばならない アタラクシア=幸福へとつながる 自分自身であること=関係・結びつきそのもの=心乱されず、その場に残る 装備とし…

フーコー「主体の解釈学」読書会 第10回

・救済としての自己への配慮 自己は自己のために自己によってほかならぬ自己に到達すべく自己を救う ひとは自分自身の対象であり、目的であり、自己の中に自らの報酬を見出す 救済=危険からの解放、維持・保存・安定、守ること 「動揺の不在」と「自己以外…

フーコー「主体の解釈学」読書会 第9回

・物語としての自己 1日の物語=良心の吟味=ゲームの規則=巻物をおり広げる=務めを広げる 養生法、家政学、友愛の3領域 自己自身を目的として、自己をよりよく形成し、自己に対して行う作業を進めて自己へ到達する

フーコー「主体の解釈学」読書会 第8回

・哲学者=然るべく他者を導く人=他者の精神の向きを変えさせる パレーシア=心を開いていること=率直に話すこと 苦い必然=自分が真実と思っていることを諦めなくてはならない 師と弟子=技術の違い、同じ型としての徳

フーコー「主体の解釈学」読書会 第7回

・自己を欲すること=然るべく欲すること 自由に欲する=絶対的に欲する=つねに欲する 迷妄からの脱出=時間にバラバラにならないようにすること 脱出の導き手としての師=他者の必要性 師=自己を統御し、自己に喜びを見出す模範としての媒介項

フーコー「主体の解釈学」読書会 第6回

・自分自身にたどり着くこと=自己への配慮の到達点 すでに人生が終わってしまったかのように生きろ! 死よりも先に生を完遂しなくてはならない あらゆる人に呼びかけられるが、一部の救済しか実現されない 自己の態度・型の練り上げとしての「自己の陶冶」